全国脊髄損傷者連合会 山形県支部 脊損山形

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ピアサポーターに励まされ職場復帰するまで   後藤 修

(1)事故当日

 私は現在43歳です。37歳の冬、もうすぐ38歳になろうというとき東根のジャングルジャングルにスノーボードに行き、 スピードを出し過ぎたままジャンプをして背中から落下し、背骨を折りました。背中から落ちた時は、息もつけないぐらい のすごい痛みでした。起き上がろうとしても、起き上がることができず、足が全く動かないことに気づきました。 呆然として仰向けになっていたら、親切な人が二人来てくれました。そりで救急小屋に運ばれ、 救急車で県立中央病院に運ばれました。手術後、感覚はないのに強いしびれや痛みがあり、今も続いています。 主治医から直接、下半身麻痺で一生車いす生活になるという告知を受けました。告知を受けた時は、 頭の中が真っ白になりましたが、仕事の事が気になって、主治医に「働く事はできますか。」と聞きました。 「仕事はできるよ。」と言ってくれました。でも、本当にそこまでできるのだろうかと思いました。 何でこんなことになったんだろうというショックよりも、なんとか仕事をしなければという思いが強くありました。 後で父に聞いたのですが、私のような患者は現実をなかなか受け入れられず、自分を責めたり、 夢を見ているのではないかという錯覚に陥り、家族に暴力的になったりするので覚悟しておくようにと主治医から言われたそうです。 でも、自分の場合は、家族に申し訳ないという気持ちでいっぱいで、そのようなことはありませんでした。

(2)近藤さんとの出会い

 私が入院している間、家族はいろいろと動いてくれていました。脊髄損傷に関連ある本を買ったり、 関係のあるものをパソコンでダウンロードして印刷したものを見せてくれたりしたので、少しずつ自分の体の現実を知ってきました。 また、同じような体の人がどんな生活をしているのかなども知りました。しだいに覚悟ができてきました。 それから、妻がパソコンで「山形生活住環境」の社長さんで、車いす生活である近藤さんのホームページを見つけて連絡を取ってくれました。 父が直接会って私の状況を話したところ、大丈夫だと励まされ、その後、私の病室に来てくれました。まだリハビリに入る前で、 これからどうなるのかわからず先がよく見えない状態のときでした。車いすの人は今まで病気やお年寄りの人しか見たことがありませんでしたが、 初めてお会いした時、とても活力のある方という印象でした。車いすでもこんなに元気な人がいるんだ、 自分も車いすで普通に生活できるかもしれないという光が少し見えてきました。その後もたびたび来て下さって、自分のけがをした経緯、 日本でのリハビリのこと、アメリカでのリハビリのこと、現在の生活のことなどいろいろと話をしてくれました。 私も、着替えの方法、トイレのこと、車の運転、風呂の入り方、その他自分が疑問に思ったことをいろいろ聞きました。 その度いろいろと教えてもらいました。少しずつ日常生活を送る上での疑問が取り除かれ、不安がなくなってきました。 なんとかなりそうだという見通しが立ちました。いろいろお話を聞いた中で「遊びでけがをしたのだから、まいったとは絶対言えないんだ」という事が 強く印象に残りました。厳しい言葉ですが全くその通りだと思いました。近藤さんはそうとうがんばってきたのだろうなということが感じ取れました。 自分がくじけそうになった時、その言葉をいつも思い出していました。

(3)治療とリハビリ

 手術をしてしばらくしてからリハビリが始まりました。最初はベッドで、次にリハビリ室に行ってやりました。 いろんな人がリハビリに励んでいましたが、脊髄損傷の患者は私だけでした。動かないところは諦めて、動く上半身を鍛えるのです。 みんなは低下した機能が動くようになるためにリハビリをするのです。私とリハビリの意味が違い、非常に精神的に辛かったのですが、 がむしゃらにがんばりました。近藤さんにパワーリハビリのこと、筋力をつければなんとかなるということも教えてもらいました。  その後、社会復帰するには、より専門的なリハビリが必要であり、主治医の紹介で、東北労災病院に転院しました、そこでは、 リハビリの取り組み方で、その後の状態ややれることが大きく変わってくるため、厳しいリハビリに必死で取り組みました。 そこで同じように脊髄損傷の人たちとも話ができ、よい情報交換ができました。また、先生方から大きな励ましをを受け、 少しずつ希望が持てるようになりました。同じ病室の20代の人は、トランスファー(移動)がとても上手で、ベッドでも普通に起き上がっていたので、 きっと自分よりも状態がいいのだろうと思って見ていました。ところが、自分よりも上の方の脊髄を損傷していたのでした。 自分は彼よりも状態がいいのだからあれ以上できなければおかしいと思いがんばりました。彼は役所勤めの人で、復職できると言っていましたが、 自分は復職できるのだろうかという不安が常にありました。そんなとき、ここへ来た目的は何なのだろうかということを自問自答し、 自立できるまでの体を作ることだ。それは、筋肉をつけることだということをいつも確認していました。近藤さんには、労災病院にも足を運んでもらい、 いろいろお話を聞き励まされました。

(4)住宅改修

 けがをする前は、離れの一軒家に妻と娘の三人で生活していましたが、母屋に両親と同居ということになりました。 車いすで生活できるように住宅改修を近藤さんにやってもらいました。使いやすいように私の身体状態を考え、最小限度の改修で済ませてもらいました。 生前の祖父と祖母が使っていた部屋をリフォームして、床をフローリングに、洗面所もトイレも自室のそばに車いすで使えるようにしてもらいました。 お風呂は浴槽に手すりをつけ、床にすのこを敷いてかさ上げし、シャワーチェアーを置いてもらいました。入り口はシャワーカーテンで仕切ってもらいました。 一人で車いすから床に降りたり、床から車いすに乗ったりということができるようになっていたので、自力で入浴できました。 それから、玄関段差に昇降機を設置してもらいました。また、玄関から車庫まで、電熱線をコンクリートの中に入れて融雪にしてもらいました。 車いすは内用の折りたたみ車と外用の固定車の2台準備しました。内用の折りたたみの車いすは、使わないときは車庫に置きっ放しにしました。 このアイデアも近藤さんから聞きました。車庫での車いすの積み降ろしがない分ずいぶん楽になりました。

(5)退院後の生活

 夢中でリハビリをしていた時は早く家に帰りたいということがありましたが、いざ退院して現実の生活になってみると、 落ち込むことが度々ありました。休職中は外出することに抵抗があったのですが、人の目に触れることもリハビリなのだということを 近藤さんに教えてもらいました。新しい車を買って改造してもらい、できるだけ外出することを心がけました。 車いすになった自分の姿を受け入れることがなかなかできませんでしたが、車いすでも元気に過ごしているということをわかってもらいたいという気持ちで、 復職するまで一日一回は外に出るようにしました。でも、知っている人に会うのが嫌で、山形のジャスコ南店や寒河江のチェリーランドや仙台に出かけました。 少し自信がついたところで近くに外出するようになりました。たまに知っている人に会ったとき、脊髄損傷になったんだと言うのがとても嫌でした。 周りの人は自分をどう見ているのだろう。可哀想な感じで見ているのだろうか。不自由な身体になっても可哀想ではないということをわかってもらいたくて、 服装には気をつけておしゃれな格好をしました。車いすの自分を人目にさらして、人目に慣れよう。車いすになった現実に慣れることによって、 自分に自信をつけよう。そんな気持ちで努力して外出しました。

(6)復職に向けて

 退院したら職場に早く復帰した方がいいと主治医に言われ、自分も早く復帰したかったのですが、校長からはトイレが作れない、 復帰しても今受け持っている子供を指導できるのかなど、来てもらっては困るようなことを言われ、自分も家族も復帰への希望か絶たれたような気持ちになりました。 そんな時、近藤さんからアメリカで車いすの小学校の教員に出会ったお話を聞きました。また、東北労災病院の主治医からは、 「車いすだからといって復帰できないことはない。やり方でいくらでも可能だ。」と励まされました。自分も何とか学校に戻りたい気持ちで所轄市教育長に会いに行き、 要望としてスロープを作ってほしい、トイレを作ってほしい、二階に上がるための階段昇降機をつけてほしいということなどを伝えたところ、 「自分でこういう体になったのに要望が多すぎる」と言われてしまいました。しかし、私が復職への意志が強いことを受けとめて下さり、 はじめの言葉とは逆に何とか復職させてやりたいという教育長さんの温かい思いが感じ取れました。自分は校長や同僚の先生方、生徒たちにも大変迷惑をかけている、 申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。施設面で学校にだけお願いするのは申し訳ないという思いから、自分でできる方法を考えるようになりました。 父は階段昇降機のメーカーに連絡し、自費で中古の物を購入する方法やリース等について相談しました。メーカーがいろいろ調査して下さり、 メーカーの紹介である施設から現在不要になっている中古の昇降機を借りることにし、トイレはポーダブルのものを購入することにしました。 このように準備をしていましたが、今考えるとそれだけでは現実的に無理だったと思います。車いすで勤務するにはバリアフリーの完備したところが必要条件です。 現在、全国的に車いすの障害者が小学校の教員になっている例は、神戸、大阪、川崎をはじめ、珍しいことではないという話も聞いています。 また、「障害者雇用促進法」によって、雇用の職域が拡大され、小学校教員もその対象になっています。こうしたことを理解していただけなかった校長の 厳しい対応に悩み、教職員組合に相談したところ、親身になって対応してくれ、校長や市教育委員会に何回も足を運んでくれました。 市教育長からは何とかして現在の身分を確保してやりたいと言っていただきました。最終的には現職での復帰を進めていただき、 バリアフリーの学校に転任が決まりました。筆舌に尽くしがたい苦労もありましたが、復職できるまで親身になってご心配をいただいた方々に心より感謝しています。

(7)現在

 復職した学校は肢体不自由の学級があるのでバリアフリーです。玄関にはスロープがあり、車いすトイレがあり、エレベーターが設置されています。 段差も少なく校舎の移動がとてもしやすい学校です。現在4年目ですが、体調を崩すこともなくなりました。現在は4年生の全学級に算数のTTとして、 わからない子どもを中心に担任の先生と一緒に指導しています。また、算数の取り出し指導で、低学年に個別に指導もしています。身体的に無理なところは 他の先生方の協力を得ていますが、授業の他に教科書関係、転出関係、月末統計等の校務分掌などもやっています。外での交通指導や日直の際の校内巡視もします。 車いすでもできるところはできるだけやるように心がけています。けがをする前は、よく一人で行動していたのですが、今は妻と娘と三人で 行動することが多くなりました。自分の生き方が軌道修正されたような気がします。体の自由は失われましたが、 けがをする前に関わることができなかったいろいろな人に出会い、以前より充実した生活を送っているような気がします。  これからは更に仕事に励み、学校においては子ども達に障害があってもあきらめなければいろいろな事が出来るんだよということを教えて行きたいと思います。 また、障害を持つ方たちを励ましていけるような存在になりたいと思っています。